研究者紹介

Researcher

地域イノベーション学研究科
地域イノベーション学専攻

平井 智子Hirai Satoko

平井 智子
研究テーマResearch theme
 現代資本主義システムは、労働力の商品化によって特徴づけられる。人々は労働市場に参加し、雇用契約と賃労働を通じて所得を得なければ、日常生活を維持することができない。
 労働力の商品化は、資本主義体制の発展の要であった。賃金がインセンティブとなり、労働者の生産性が上がるとともに、資本の蓄積と集中が進み、企業の生産効率も飛躍的に上昇したからである。
 しかし同時に、労働力の商品化は自己解体の種でもある。なぜなら、労働力商品は通常の商品とは異なり、再生産の必要があるためである。すなわち労働者が翌日以降も労働を続けるためには、衣食住が満たされなければならない。そして、それが十分にできるだけの所得を労働者が得られるかどうかは、企業が労働者に対して利潤をどの程度分配するかにかかっている。
 エスピン-アンデルセン(2001)は、福祉国家を分類するにあたり、脱商品化の度合いを指標としている。脱商品化とは、簡単にいえば「個人あるいは家族が、必要と考えたときに自由に労働から離れることができるかどうか、その程度」のことである。そしてもうひとつの指標は、社会的階層化の度合いである。福祉国家(社会保障制度)はそれ自体が人々の階級を作り出す能動的な力であるとして、人々を分断するような選別的で細分化された制度ではなく、人々の連帯を作り出すような普遍的な制度であることが望ましいと説く。
 また本田浩邦(2019)は、今日の資本主義の危機の一側面として「貧困の拡大と経済的排除」を挙げる。そして、それに伴って進行している「社会関係資本の減退」がもうひとつの危機であると述べる。このような彼の問題意識は、経済的な問題が、個人ないし家族単位の生活の維持のみならず、社会的な関係の構築にも大きく影響することを示している。両者は密接に関連しているのである。
 ところで、近年の社会保障制度は、誰もが社会に「包摂」されること、すなわち「誰一人置き去りにされない」社会の構築を目指している。では「包摂」とは一体何か。
 しばしば語られるのは、社会参加(就労やボランティア、地域づくり活動など)を通じた人々の社会的な関係づくりが重要だという言説である。しかし既に述べたように、現代資本主義システム下において人々は商品化されているため、市場で財やサービスを購入することなしには日常生活を維持することができない。したがって、現実としてまず経済的基盤は不可欠なものであり、この点が軽視されてはならないのである。
 以上のような理由から、筆者は、経済的基盤を人々に普遍的に提供あるいは支援する制度としてのベーシックインカムについて、主にその理念と必要性の観点から研究をおこなっている。 
研究内容の概要Overview
 「包摂」的とは、社会的排除のない状態を指す、と言われる。
 社会的排除は非常に広い概念であり、しばしばアクティベーション政策(人々をエンパワーし社会参加を促す政策)とあわせて語られる。1980年代以降の欧米諸国の多くでは、財源の問題から、単に福祉的な給付をおこなうのではなく、人々が社会に参加するように促す(あるいは強制する)政策へと方向転換がなされた。ここでの社会参加は、部分的にでもできるかぎり労働市場に復帰すること、さらに自力で生活を維持すること、これらを目指すための一ステップと見なされる。この政策は、社会関係の構築(社会関係資本)を入り口にして稼得能力を獲得し、生活の維持につなげるという方向の政策である。
 しかし本田(2019)が言うように、社会関係資本と個々の生活の維持とが密接な関係にあるならば、逆方向の道筋、すなわち個々の生活の維持をまず担保することによって社会参加が促されるという方向の道も探られなければならない。
 これらから、筆者は本田がその著書のなかで少しふれた「経済的排除」という言葉に注目したい。本田はこの言葉についてとくに詳しく言及はしていないのであるが、ここには大きな含意があるように思われる。筆者なりに「経済的排除」を定義してみたい。
 社会的排除と非常に似た言葉ではあるが、「経済的排除」は、広範な社会的排除の概念のうちの、個々の生活の維持の側面に注目するものである。これは、現代資本主義システム下では人々が生活を維持しようとする際、市場を介して生活のための財やサービスを得ること(消費)が不可欠であることとも関連する。
 「経済的排除」は、労働によるものであれ福祉によるものであれ、ある人の所得額が最低生活水準を満たすかどうかではなく、その所得を自身の当然の権利であるとして自由に経済循環に参加できるかどうか、消費やその他の活動に充てられるかどうかに主眼を置く。たとえば現在の生活保護制度のようにスティグマや負い目をともなうような消費であってはならない。したがって経済的排除のない社会は、普遍的な所得保障制度を備えていることが必要だと考えられる。

 その他、エスピン-アンデルセンの議論や、ベーシックインカムを支える哲学に関してもっとも精緻な議論を繰り広げている研究者の一人であるVan Parijs(1995)の「Real-freedom-for-all(万人の実質的自由)」の議論をとりあげ、「包摂」とは何かを考察する。
 Van Parijsによれば、ごく簡単に言えば、万人の実質的自由とは、"whatever one might want to do"(ある人がしたいと欲するであろう事は何でも)を何ものにも妨げられないことである。これに従えば、社会参加をするかどうかさえ個々に自由に選択されなければならないし、したいと欲するであろうことを所得(貨幣)の有無によって妨げられることもできる限り無くされるべきである。ここからベーシックインカムが正当化されることになる。誰が何を選択しても経済的に排除されずに生活が維持できる社会、これがもっとも包摂的な社会ではないだろうか。
研究成果をどのように社会に役立てるか
(還元の構想)Giving back to society
 ベーシックインカムのある社会ではどんなことが実現できるか。これについてはさまざまな立場の論者が多くのことを述べている。
 たとえば、働きたい人が減るので、企業が労働者を確保するために労働環境の改善が見込まれるとか、家事や育児、介護などの不払い労働への補償になる、女性の解放が進むとか、職業を自由に選択でき、個人の能力が最適な場所で発揮されることになるので生産性が向上する、イノベーションが進むとか、生活費のために都会に働くに出る必要が軽減するので地方活性化につながる、等々。
 これらに共通するのは、ベーシックインカムによって「個々の選択の自由が最大化されるだろう」ということである。
 しかし、ベーシックインカムは万能薬ではないことも念頭に置かねばならない。上記のような希望的観測に反して、逆にベーシックインカムがあることによって賃金水準が下落し、生産性も国際競争力も低下するだろうとか、既存の社会保障制度がすべて廃止されるのではないかとか、さまざまな懸念を根拠にベーシックインカムを否定する声も大きい。現に、世界の主要先進国のうちでベーシックインカム制度を導入した国はいまだに無いのである。
 実際、ベーシックインカムはそれ自体が目的なのではなく、ある社会的理念を実現するための手段である。したがって、ベーシックインカムが人々にとってより暮らしやすい社会をもたらすかどうかは、どのような社会を理念(目的)として掲げるかによるのである。
 筆者は、もっとも広範に人々を「包摂」する社会を理念として掲げるべきだと考える。これに理論的根拠を加えようとする本研究は、人々のベーシックインカムについての理解を助け、ひいてはその実現にも資することになると考える。
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